皆さんこんにちは。ともぞーです。
「3・11」と聞くと何を思い浮かべますか?
そうですよね。やはりあの東日本大震災を思い浮かべますよね。
皆さんはあの時何をしてましたか?
私があの時に経験した「3・11」をちょっと書いてみようと思います。
地震前
私は24時間勤務の明けの日で、買い物から帰ってきて家でまったりしてました。
そんな時、突然緊急地震速報が鳴り、揺れの感じからこれは大地震だと思い近くにあった小さな金魚鉢の水が溢れないように持っていたのを思い出します。←悪い見本
私の住んでいる埼玉は5強か6弱程度の地震でした。

非常参集
私が働いていた消防局では震度5強以上の地震が発生した場合、自動的に参集(勤務場所に集まる)する事になっていました。まだまだ余震が続く中、いつ帰って来れるかは分からないと伝え、家族を置いてバイクで消防署へと向かいます。
地震直後は人も車もまばらで変な静けささえ感じながらも、自分を必死に落ち着かせながら消防署に向かっていました。

緊急援助隊
私が当時所属していた特別救助隊は緊急援助隊として登録されている部隊だったので、到着後直ぐに緊急援助隊出場の準備を行います。
しかし、当番の部隊が基本的に行く事になっているので私は出場の準備を遂行し、緊急援助隊埼玉県隊第1陣を岩手県陸前高田への出場を見送ります。
その日は深夜0時過ぎに帰宅しました。

緊急援助隊第2陣
12日、13日は日勤で市内の被害に遭われた建物等の危険排除活動等を行い、私も埼玉県隊第1陣の交代要員として13日の夕方に出場する事が決定します。
因みに、私の妻が妊娠9ヶ月目だった事もあり、私には行かなくても良いとの選択肢もありましたが、妻には申し訳ないと思いつつ出場の準備を整え、緊急援助隊第2陣として出場します。
緊急車両のみ走れる高速道路は、東北に近づくにつれてかなり道が悪くなっていきます。到着時間の調整もあり、車内で一夜を明かし岩手県陸前高田市に到着したのは早朝でした。
近づくにつれ・・・
次第に、事の重大さが分かってきます。 ※写真の無断転載を禁じます


写真のように、まだ沿岸から数キロ離れているにも関わらず全てが流されているのが分かります。
沿岸に近づくにつれ、皆んな無言になり「これは大変な活動になる」と改めて覚悟を決めます。
活動
消防が行う活動の基本は『人命救助』です。
しかし実際の活動は、消防団・警察・自衛隊が亡くなられている方を発見しても救出できないと言う方を消防が救出するという活動がメインでした。
目を覆いたくなるような、凄惨かつ過酷な現場での活動。
周りを見渡すと、何十、何百という数のご遺体。
余震や津波がまたいつ来るかも分からないという恐怖。
電気・ガス・水道・携帯の電波等も無く、お風呂どころか手すら満足に洗えない状況。
夜はマイナス5度を下回る中でのテント泊。
充分に寝る事すら出来ませんでした。
しかも3日間と言う活動予定が、急遽20日までの延長となり、肉体的にも精神的にも限界を超えての活動でした。
また、消防は「自己完結型」と言って、被災されている現地の方に迷惑にならないように配慮する為、野営地・食料・燃料などは基本的に自分達で準備・持参します。つまり、活動期間が延長となった場合、食料・燃料などが不足に陥り、充分な食事すら出来なくなると言う状態でした。因みに食事は、朝・晩はアルファ米&レトルト、昼食は乾パンでした。
それでも・・・
とても、辛いとか苦しいとかを言える雰囲気は全くありませんでした。
みんなが戦っていました。



娘の誕生
20日の朝、緊急援助隊第3陣が到着。
一番過酷だったと言われた、我が第2陣の活動は終了しました。
部隊が帰署に向かう中、被災されているのにも関わらず、たくさんの人々が深々と頭を下げ見送って頂いた光景は今でも忘れられません。
帰署途中、やっと携帯電話の電波が復活し、母からまさかの「私の妻が破水した」との内容のメール。
流石にまだ直ぐには産まれないだろうから立ち会えるだろうと思っていたものの・・・
埼玉県に入った瞬間・・・。
まさかの「産まれました」との母からのメール。
身も心もボロボロで憔悴し、疲れ切っている仲間達にバスの中で報告すると・・・
みんなが涙を流しながら祝ってくれました。
それが私が経験した「3・11」です。



『ただいま』
と言う一言が言えなかった人を少しでも減らす為・・・
元消防官として、自分なりの自分にでも出来る活動をこれからも続けて行きたいです。
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